そろそろ太宰治と再会する時だ。酒田で受け取ったメッセージは明らかだった。毎日、ホテルを出る時も戻る時も、作家は生きることに疲れたような悲しげな表情で私を見つめていた。書棚に立てられた日本語版『人間失格』の表紙は、私を放っておいてはくれなかった。新しい一章を書かなければならない。自国で「呪われた作家」とされた太宰と私との関係について、そして旅の途中で偶然出会った彼の同胞たちの心に、その作品が残した痕跡について。

弘前へ向かう列車の中では、夢を見、思いをさまよわせ、積み重なった鮮明な、あるいは曖昧な印象をしばらく漂わせる時間がある。それらは混じり合い、結び目を作り、仮説を生み、道筋を描き、ときには突拍子もない形で再び浮かび上がる。まだ私は知らない。私の道が、弘前で学生だった太宰が暮らし、いまは資料館となっている家のボランティアガイドを務める一人の老人と交わることを。太宰が文章を書いていた一角、伝えられるところでは彼が初めて自ら命を絶とうとした場所を前にして、老人は記憶をたどりながら、太宰が熱心に読んでいたという謎のベルギー人作家について私に話してくれることになる。だが、少し先走りすぎた。

© Philippe Daman

日本の列車の中で眠っている大勢の日本人のうち、太宰の夢を見ている人が一人くらいいるだろうか。たとえばあの人。首を少し傾け、顎を手にのせている。どこか作家を思わせる。思考はさまよい、視線は一人の乗客から次の乗客へと移っていく。大きな弁当を前に猛烈な食欲を見せているあの女性は、太宰が食べ物の中に多くのものを見ていたことを知っているだろうか。社会的な位置を示すもの、土地のアイデンティティ、そして罪悪感。車掌が何度も通り、車両に入る時も出る時も頭を下げる。彼は短編『列車』に書かれたこの一節を思い出したりするのだろうか。

「その間にこの列車は幾萬人の愛情を引き裂いたことか。」

こうした想像は、ただの妄想ではない。この旅で実際に経験してきたことに基づいている。話をしていると、誰もが私に、日本でこれからどこへ行くのかと尋ねる。そこで私は東北のこと、太宰治の『津軽』をたどる旅のことを話す。驚きは双方にある。彼らは、ずっと昔に亡くなったこの作家に私が興味を持っていることに驚く。一方の私は、太宰が日本人のあいだでこれほど知られていることに驚く。私が話した人の圧倒的大多数、ほとんど全員が彼を知っており、多くの人が作品を読んでいる。しばしば「呪われた作家」と形容される太宰は、日本では文学の枠を超えた、本当の意味での基準点のような存在だ。学校で教えられる作家というだけではなく、一人の人間としても。悲劇的な人生、作家としての才能、共産主義への傾斜、そして自らのブルジョワ的な出自への反発が、彼に特別な位置を与えている。

「安くておいしいものを、たくさん食べられたら、これに越した事はないじゃないか。」

太宰は1942年の随筆『食通』にそう書いている。これは、私がフランスで思い浮かべる「美食家」のイメージとはずいぶん違う。むしろ、食べることそのものを楽しむ「食いしん坊」に近いのかもしれない。まあ、どちらでもいい。日本では毎晩、おいしいものを安く食べることができる。そのためには観光客向けの店を避け、ときには入店を断られることも受け入れ、地元の人の助言を優先しながら、時間をかけてよく探す必要がある。

弘前は夜になると酒田より活気があり、選択肢も多い。それが少し意外だった。私はまだ、太宰が『津軽』で描いた弘前の印象を引きずっていたのだ。私が選んだ居酒屋のある通りはとても静かだが、ほかの通りのざわめきはちゃんと聞こえてくる。最初は場所を間違えたかと思う。通りに面した入口も、その前で灯りのともった提灯が揺れているわけでもない。あるのはガレージだ。二階には灯りがついていて、普通の住居に見える。だが居酒屋は確かにそこにある。小さく控えめな看板がそれを知らせている。扉を押し、まっすぐで狭い階段を上がる。階段を上るにつれ、笑い声、話し声、注文を告げる声が頭上に響いてくる。

小さな店内に入る。中心にはカウンターがあり、その向こうで店主が忙しく働いている。ここが大切な瞬間だ。新しく入ってきた者が受け入れてもらえるかどうか。空いている席は一つだけ。一人だと告げる。少しでも日本語を話し、人数をきちんと伝えることを知っていれば、受け入れてもらえる可能性はかなり高くなる。店主は簡単な身振りで空席を示す。二人の若い女性店員は狭い空間を軽やかに動き回り、ごく自然に靴を履いたり脱いだりする。私はこういう場所なら、食べなくても、飲まなくても、ただ眺めているだけでいられる。給仕という儀式のような踊りを見ていたい。少しずつ違う細部がある。身振り、日本酒の注ぎ方、メニューの説明の仕方、注文の取り方。

メニューは手書きなので、読むのはさらに難しく、私にはほとんど不可能だ。だが今では人工の助けを借りることができる。それは実に心強い。日本料理の果てしない多様性を探り、その味、食感、色、香りを体験することができる。新鮮な食材を使い、注文を受けてから作る料理は、市場の状況、料理人の目と鼻、その日の気分、ときには常連客の希望にも左右される。より定番の料理は、縦書きの木札に書かれていることが多く、ときにはただの紙が吊り下げられている。

はすやは、津軽の料理に初めて触れるには理想的な場所だ。太宰もこの店を気に入っただろう。人と人との近さ、活気、見かけの雑然さ、飾り気のなさ。そのすべてが彼の言葉を話している。

「この地方の産物を、出来るだけおいしくたべる事に、独自の工夫をこらす。」

太宰治『母』、1947年。

海苔に包んだウニを食べる。津軽海峡のサーモンの刺身には、ほかでは味わえない繊細さがある。強い海流に逆らって育つことで、その身にこの繊細さが生まれるのだ。そしてホヤ。これはまさに一つの体験だ。その強烈な磯の味が私は好きだ。太宰の声が、やさしく私を叱っているように聞こえる。

「食ひ物に淡泊なれ。」

その忠告に、日本酒で乾杯する。

翌朝、私はがっかりする。弘前城は工事のため閉まっている。天守の上まで登り、町を眺め、太宰治の眼差しと自分のそれを重ねてみたかった。『津軽』の序編で、太宰は弘前を驚きをもって描き、あらためてこの町を発見し、こう書いている。

「ここは津軽人の魂の拠りどころである。」

この本が置かれた時代を忘れてはいけない。これは小説ではなく、自伝的な旅行記だ。1944年5月から6月にかけて、太宰は小山書店の依頼を受け、『新風土記叢書』のために故郷を旅する。太平洋戦争のさなかという時期は驚くべきものだが、同時に当時の日本人が置かれていた情報統制の状況を映してもいる。太宰は物資の制限、戦争遂行のための負担、軍事的に敏感な場所について慎重に書かなければならないことにも触れる。しかし、それがこの本の主題ではない。彼にとってこれは、自分の根へ戻り、そこから自分自身を理解しようとする旅なのだ。

「私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。[…]私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。」

太宰治『津軽』、1944年。

城の公園には、ほとんど人のいない広大な植物園がある。そこはカラスたちのもののようだ。木の上から、彼らは警告するように鳴いている。その声は真面目に受け取ったほうがいい。開けた場所では注意しなければならない。近くに巣があるかもしれない。池があり、水面すれすれに架けられた細い木の橋を渡る。思いがけない出会いにはうってつけの場所だ。たとえば、弘前で学んだ日々を思い出し、自分が文学を選んだあの時を考えている作家との出会い。彼の顔はもう曇り始めている。書く喜びよりも、悲しみと恐怖のほうが勝り始めている。1936年に刊行された最初の短編集の冒頭には、その56年前に発表されたヴェルレーヌの詩句が掲げられている。

「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」

そろそろ、老人が待つ家へ向かう時間だ。もちろん、私一人を待っているわけではない。太宰治に興味を持つすべての人を待っている。旅する学生は少しばかり単純だ。自分でははっきり認めていなくても、場所には固有の空気があると信じ、徴を見つけ、家の木材のあいだを吹き抜ける風が、同じ旋律を口笛のように吹きながら自分に語りかけてくると思っている。私たちはみな同じだ。旅する学生、学生である旅人。私たちにとって空間と時間は相対的だ。開かれた目、ものを見る目は測定器となり、現在の対称性を破り、過去を再び生き返らせる。

老人は一人ではない。中年の日本人夫婦が、敬意をもって彼の話を聞いている。私は靴を脱ぎ、主室の畳の上で彼らに加わる。何を言っているのかほとんどわからない。ただ推測する。一つの言葉、一つの身振りが手がかりになる。老人はこの場所の歴史を語っている。その一部は私も知っている。太宰治が学生部屋のように使っていた部屋のある家は、親戚筋にあたる藤田家のものだった。彼は1927年、17歳でここに来て、3年後、官立弘前高等学校文科を卒業するとこの家を離れた。

太宰治は二階に住み、藤田家の息子、モトタロウと空間を共にしていた。二人は友人になる。モトタロウは写真に興味を持ち、若き日の作家を写した多くの肖像写真が彼によって残されている。写真は部屋のあちこちにある。展示ケースの中にも、家具の上に無造作に置かれたものもある。とても簡素な収納棚があり、その隣には低い机がある。さらに左には、太宰が文章を書いていた机。いま老人は私一人に話している。中年の夫婦は帰ってしまった。どうやら列車の時間があったらしい。私が日本語で口にしたわずかな言葉から、老人は私が日本語をかなり理解できると思ったようだ。何かを説明してくれる。やがて私は理解する。太宰治はあるベルギー人作家をとりわけ好んでいたが、老人はその名前を忘れてしまったという。そして彼は私に、ブルッヘと言う。

太宰治がフランス文学に関心を持っていたことは、何の謎でもない。弘前を卒業したあと、彼は東京帝国大学の仏文学科に入学する。熱心な学生ではなかった。フランス語も不得意で、結局大学を卒業することはなかった。しかし彼は大量に読んでいた。1930年代の日本で非常に人気のあったフランス文学の古典を、日本語訳で読んでいた。ヴェルレーヌ、ボードレール、ランボー、マラルメ、プルースト、ジッド、ラディゲ。いずれも太宰の蔵書に見つけることのできる大きな名前だ。では、この歴史の詰まった小さな部屋で老人が話しているベルギー人作家とは、いったい誰なのだろう。

テクノロジーのありがたいところは、どこにいても、ほとんど瞬時に調べることができることだ。一つの名前が浮かび上がる。ジョルジュ・ローデンバック。ベルギー象徴派の作家で、その代表作は『死都ブリュージュ』である。ローデンバックは20世紀初頭から日本で翻訳されていたため、太宰が読むことは可能だった。ただし『死都ブリュージュ』の最初の完訳が日本で刊行されるのは1933年を待たなければならない。象徴主義の主要作品の一つとされるこの小説を読んでいたとしても、先に触れたフランス象徴派の詩人や小説家に対する太宰の関心とは矛盾しない。だが、私には何の証拠もない。あるのは、下手で心もとない私の日本語で、偉大な日本人作家に情熱を注ぐ一人の老人と交わした会話だけだ。私は旅する学生だ。ジョルジュ・ローデンバックを読んだことすらない。ただ、思いもかけず同国人に出会ったような気持ちになり、それを嬉しく思っている。この出会いは、少し文学的になってきたこの旅の物語から、新しい一本の糸を引き出すことを教えてくれる。フランス語圏の文化――それは私自身の文化でもある――が、一人の「呪われた」日本人作家に与えたかもしれない影響という糸だ。

「無言の類似! 魂と事物との相互浸透! われわれは事物のなかに入りこみ、事物はわれわれのなかに浸みこんでくる。

とくに町々には、それぞれ一つの人格、自主独立の精神があり、喜びや新たな恋や、断念や寂しいやもめ暮しと通じあうような、ほとんど表に現れ出た性格がある。あらゆる都市は一つの精神状態であって[…]」

ジョルジュ・ローデンバック『死都ブリュージュ』(窪田般彌訳)、1892年。

太宰治による弘前の描写は、このローデンバックの文章をどこか思い起こさせる。ベルギー人作家は都市を一人の登場人物にし、日本人作家は都市に社会的な役割と集合的なアイデンティティを与える。私の都市の見方は少し違う。私は歩きながら都市を知る。目的を持たず、見るべきものを見ようともせず、足の向くままに歩くと、都市のほうが見せたいものを見せてくれる。そうして私は、古いものも新しいものも含め、歴史の痕跡を見つける。日本の都市は、通り、建物、公園、神社、寺を通して自分の物語を語る。とても慎ましく、どこか不格好で、それぞれに隠された美しさがあり、それが少しずつ姿を見せる。こちらにも理解する心と忍耐が必要だ。歩くことを好きにならなければならない。時間のない者が、ひと目で愛せるような顔を見せてくれと求めてはいけない。日本の都市は、容易な都市ではない。

東京は手なずけるべきゴジラ、金沢は複雑な恋物語、小樽はそこに暮らす人々の魅力をまとい、鎌倉には秘めた情熱のどこか悲しい色があり、長崎は涙越しに輝いている。これらの都市は、そうやって私の中に入ってきた。少しずつ、旅する学生としての私の眼差しを形づくり、私自身の物語の一部になることを受け入れてくれた。弘前はまだ、私の中で正体を得ていない。もちろん、太宰治の故郷をたどりながら津軽へ入った最初の町ではある。しかし弘前にはまだ、ほかにはない、忘れられない個性が必要だった。

私の記憶に残っているのは、太宰以上にあの老人だ。作家の青春という神殿の守り人として、彼は毎日、見知らぬ人々に自分の情熱を分け与えている。一枚一枚の写真の物語を知り、一冊一冊の本がたどった物語を知っている。語り、描写し、説明し、太宰が弘前で経験した大切な瞬間を指し示す。初期の重要な作品から、最初の自殺未遂まで。ほとんどすべての日本人が太宰を知っている。だが、あの老人は毎日、その作家とともに生きている。太宰の本と写真に囲まれ、その影も、文章も、筆跡も、いたるところにある。夕方の陽射しの下を歩きながら、私は微笑む。いい一日だった。お盆には――私はそう確信している――太宰治も死者の世界から戻り、敬意をこめて老人に挨拶するだろう。

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