新潟を発つときには多くの雲が空を覆っていたが、酒田に近づくにつれて散っていく。少しずつ日本海の上に空が開け、青い切れ間から強い光が差し込む。その光が、激しい白い波しぶきに打たれる黒い岩の、入り組んだ海岸線を照らしている。酒田は今年、東北での最初の立ち寄り先だ。東北は、本州という大きな島の北東部にある地域である。太宰治の土地、津軽へ着く前の立ち寄り先だ。

ここに立ち寄る特別な理由はなかった。おそらく、見知らぬ小さな町に数日滞在してみたいという、それだけのことだった。偶然が意図と重なることもある。驚きはまだ終わっていない。ホテルの入口は大きな書棚で飾られている。目の高さには、日本語版の『人間失格』が展示台の上に誇らしげに立ててある。太宰はそこにいる。顎を手に預け、胸が締めつけられるほど悲しい眼差しで、私を待っている。

酒田は不思議だ。ときおり、見捨てられた町のような印象を与える。通りはたいてい無人で、生きているのは車だけのように見える。『おくりびと』の監督、滝田洋二郎に着想を与えたのも、もしかするとこの感覚だったのかもしれない。この素晴らしい映画では、チェロ奏者が故郷の酒田に戻って暮らす。そこで彼は、葬送の儀式という新しい世界を知る。通りを歩きながら、私はこの見捨てられたような感覚を再び覚える。それは、生と死の間にある場所のように、映画の底に流れている。これから向かう聖域は、もしかすると彼岸への扉なのかもしれない。

© Philippe Daman

仏教墓地がある。やはり、主題はそこにある。矢印のついた案内板が、大仏を見に行くよう私を誘っている。少し驚く。こうした小さな案内板をたどる、宝探しのような道があり、それに導かれて墓地を抜け、寺そのものにたどり着く。寺は閉まっている。別の矢印付きの案内板が見える。それは、金属の柵に囲まれた中庭のような場所へ入るよう私を誘っている。子どもたちが遊んでいるかもしれないので、入った後は必ず扉を閉めるようにと書かれている。

そこは小学校だった。午後も遅い時間で、もう子どもたちはいないが、安全のための注意書きであることは理解できる。柵の扉は、車が通ることもある道路に面している。校庭を横切る。あちらこちらで、遊具が子どもたちを楽しませる時を待っている。左手、木立の奥から巨大な仏像が姿を現す。高さ17メートルの立像で、上げられた右手は安心を与え、開かれた左手は迎え入れている。その足元で、若草幼稚園の子どもたちは毎日、仏の守りの下で遊んでいる。

© Philippe Daman

これは1914年に建立された元の像ではない。元の像は1943年、日本の戦争遂行のために供出され、鋳つぶされた。今、私が見ている像は1992年のもので、酒田が私に与える奇妙な印象をさらに強めている。子どもが一人も遊んでいない校庭に立つ、孤独な像。沈みゆく太陽が美しい光を与えている。学校の壁には、敷地全体の配置を示す素朴な絵がある。左に寺、右に学校、そして校庭には大仏の小さな立体模型がある。子どもたちが作ったものなのかもしれない。

© Philippe Daman

朝7時、地面が揺れ始める。いや、むしろホテルが動き始める。建物ははっきりと揺れ、客室の天井の照明が疑いようのない証拠になっている。前回よりはるかに強く、強さを弱めることなく続いている。近代的な建物での安全原則に従い、テーブルか机の下に入ることにする。机の下の椅子を動かせないことに気づく。ベッドに挟まれているのだ。「ビッグ・ワン」という考えが頭をよぎる。通りには数台の車があるだけで、人影はない。すべてが普段どおりに見える。それでも、すべてが動いている。

30秒、40秒ほどたつと、地面の動きは弱まり、やがて止まる。天井の照明も揺れを止めた。普段の行動に戻る時間なのだと理解する。10分後、携帯電話に情報が届く。InfolocaleJaponは、日本の7段階の震度階級で震度6強の地震が発生したと伝えている。私は震源から250キロ以上離れている。震源は八戸沖だ。物的被害と軽傷者だけにとどまる。日本は自然災害への備えが世界で最も進んでいる国の一つである。

天気はよく、揺れは去り、暑さも心地よい。今朝は通りに少し人が増えている。特に制服姿の学生たちだ。ときどき、そのうちの一人が私に挨拶をする。8年前、日本に来たばかりの頃の、私の心を捉えたあの瞬間を思い出す。笑顔を伴う優しさ。若い人も、そうでない人も挨拶をする。私の国を見に来てくれてありがとう、と。その笑顔と挨拶は、大仏の二つの手だ。一方は迎え入れ、もう一方は守る。今朝の酒田は、少し生きている。今朝はまだ、大きな旅立ちの朝ではない。

酒田にある本間家の屋敷を見に来た。本間家は、江戸時代に商業、金融、土地への投資を通じて莫大な富を築いた名家である。現在も二つの見事な邸宅が残っている。現代の喧騒よりも、栄華を極めた時代への郷愁が支配する庭。さらに、この大商家が集め、あるいは贈られた美術品や貴重な品々を展示する美術館がある。

本間家の興隆は水と結びついている。その始まりは17世紀末、本間家初代・原光が酒田で商いを始めた時代にさかのぼる。時機は理想的だった。酒田港は発展のさなかにあり、品物は最上川を通って運ばれ、そこから新しい海上交易路へ送り出された。米、紅花、蝋、藍、その他の東北の産物は川で運ばれ、大阪と関西へ向かう。船はその後、加工品や贅沢品を積んで戻ってきた。

本間家は、日本商業の伝説的な存在となっていく。投資を行い、困窮した地主や農民に金を貸し、大名や藩の行政に資金を提供し、土地を取得し、倉庫へ再投資した。19世紀の危機に際しては社会状況にも目を配り、飢饉の際には米を配り、炊き出しを行った。明治維新の際には銀行や学校に投資し、新しい工業技術を用いた。それでもなお、小作人が支払う小作料を主な収入源とする大地主であり続けた。

第二次世界大戦後、農地改革によって大地主は、農民が耕作していた土地を手放すことを余儀なくされた。家の遺産の一部は文化遺産へと変わった。本間美術館は1947年に開館し、戦後に設立された最初期の私立美術館の一つとなった。本間家の歴史は、三世紀以上にわたって日本の歴史の中に刻まれてきた。現在では、江戸時代から現代日本に至る、この国の記憶の一つである。

© Philippe Daman

美術館に隣接する屋敷は、名のある商人や有力な取引相手だけでなく、日本の貴族や政治家など、重要な客を迎えるための場所だった。見事な庭園に囲まれている。こうした場所は、日本を訪れる外国人にとって貴重である。特に、まだ観光客にほとんど知られていない酒田のような町ではなおさらだ。ほんのひととき、別の誰かになった自分を想像することができる。畳に座って庭を眺め、一日の終わりが形づくる光と影を見る。あるいは今朝の私のように座り、左手の掌の上で茶碗を四分の一回転ずつ二度回し、美しい正面から飲まないようにしながら、抹茶をゆっくり味わう。

© Philippe Daman

本間家のもう一つの屋敷はまったく異なる。こちらは家族が暮らしていた住居であり、その建築には江戸時代の武家屋敷からの影響が明らかに見える。非常に大きく、23室、600平方メートルを超え、床には数百枚の畳が敷かれている。巨大な門から続く塀が屋敷を囲み、一族の富を示している。本間家は現在も、経済面だけでなく社会面においても酒田の発展に貢献した家として尊敬されている。

夕方になると、酒田は再び空になる。夜が訪れた町は幽霊の町のようだ。乏しい街灯の下、通りには黒い影が大きく広がり、あらゆる音や動きが不安を誘う。走っている車はごくわずかだ。ときおり、そのヘッドライトが、それまで気づかなかった一角を照らし出す。熊のことを考える。注意を呼びかける掲示があちらこちらにあり、誰もがその話をしている。会話の中から「熊」という言葉だけが聞こえるが、何を話しているのかまでは分からない。猫が暗闇から出て、人気のない通りを走って横切る。私はびくりとする。

探していた居酒屋に着く。中に入ると、その対照は鮮烈だ。通りの静けさが、店内の活気に変わる。広い店で、カウンターには12人が座れる。空いている席が一つだけある。それは私の席だ。大将はひと目で私を見定め、笑顔でその席を指した。弥五兵エは評判の店だ。口コミにもそう書かれている。入るには予約が必要だ。私が一人だったこと、そして大将に気に入ってもらえたことが幸運だった。すべてが本当に質の高いものだ。締めの名物は、おにぎりである。米は土鍋で炊かれ、七ヶ浜産の海苔で包まれている。かつて皇室にも献上された、非常に上質な海苔だ。

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駅から土門拳記念館へ向かうには、最上川の南岸へ渡らなければならない。最上川は、芭蕉が舟で川を下った際に俳句を詠んだことで知られている。

五月雨を集めて早し最上川

この川はまた、酒田の発展と本間家の富を支えた、欠かすことのできない存在でもある。

川を渡ると、町の景色は一変する。古い町並み、かつての倉庫、港を後にし、近代的な市街地へ向かう。住宅地の間に学校や東北公益文科大学があり、美術館や文化施設のそばには運動場が広がっている。途中、野球のユニフォームを着た学生たちとすれ違う。試合から戻ってきたところだ。好プレーに興奮し、失敗に落胆しながら、焼けつくような太陽の下を、歩いて、あるいは自転車で通り過ぎていく。

© Philippe Daman

巨大な出羽大橋を渡り、土門拳記念館に着くまでには、歩いて1時間あまりかかる。1983年に建てられた建物を設計したのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の改修と増築で知られる建築家、谷口吉生である。建物は、緑に囲まれた池のほとりに立つ。コンクリートと水は、谷口の仕事を特徴づける要素であり、金沢にある禅思想家・鈴木大拙の記念館は、その見事な例である。谷口の建築は自然の中にひっそりと置かれ、自然を乱さず、誇示することなく溶け込んでいる。どこか控えめで、少し恥ずかしげでもある。建物は自然の懐の中で均衡を保ち、水の音、鳥や虫の声も、その場所の魅力と美しさの一部になっている。

土門拳は日本の写真史に大きな足跡を残した。谷口が設計したこの記念館は、日本初の写真専門美術館である。この計画は、写真家が1974年、故郷の酒田市へ全作品を寄贈したことから始まった。土門拳は完成した記念館を見ることがなかった。1979年に三度目の脳卒中に倒れ、そのまま意識を取り戻すことのない昏睡状態に入ったからだ。

彼の仕事は、20世紀の日本を見つめるうえで欠かすことのできない視線である。1909年に生まれた彼は、若い時代に日本の近代化と、1920年代から30年代にかけての権威主義化を経験した。それはやがて軍部を権力の座へ導くことになる。大学へ進学した土門拳は、1930年代、共産党に近い農民擁護運動に参加する。1932年、政治警察である特高に逮捕され、拘束された。当時の苛烈な弾圧によって、彼は大学と政治運動を断念することになる。そして写真スタジオに入り、写真の修業を始めることを決めた。

暴力的な政治状況は、芸術家や活動家が抵抗をやめ、日本社会に溶け込む道を選んだ理由を、少なくとも部分的には説明している。弾圧の暴力を象徴するのが、プロレタリア作家、小林多喜二の死である。1933年2月20日、逮捕されたその日に、彼は特高の拷問によって殺された。共産主義者や左翼活動家は、政治警察によって組織的に追跡され、逮捕された。

このとき、土門拳の人生は軍部権力の側へ傾いたように見える。それまでの政治活動とは矛盾するかのように、写真家としての修業を終えた彼は、1935年に日本工房へ入る。日本工房の仕事は、文化と産業の面から日本を国外に向けて紹介することだった。最も発展した西洋諸国と肩を並べる国となった日本を、見せなければならなかった。日本工房が発行した雑誌『NIPPON』は、写真によって近代的で文化的、そして国家主義的な日本像を提示した。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語で刊行された。

土門拳による最初の大規模な写真ルポルタージュ『伊豆の週末』は、1936年8月、『NIPPON』第8号に掲載された。動き、身体、身振り、行為。後の仕事の萌芽が、すでにそこにある。彼は風景だけを撮るのではない。風景の中に人物を置く。その場所に生き、働く人々によって、土地は示され、その姿を現す。写真は仕事のあり方を描き、遊びの喜びを描き、捉えられた瞬間を生きる人々の存在そのものを描いている。それは日常の生活であり、彼の眼差しによって輝きを与えられている。土門拳は、ありのままの日本を語っている。

記念館に入ろうとするそのとき、私はまだ何も知らない。土門拳の写真を一枚も見たことがない。衝撃は大きい。巨大な灰色の壁に、写真が一枚だけ掛けられている。小さく、取り残されたように。『兄妹』、大阪、1955年。兄と妹が、土の道を手をつないで歩いている。光が差しているように見える狭い場所へ向かい、坂を上っている。傍らには廃墟、粗末な小屋がある。二人はどれほど長く歩いてきたのだろう。それは重要ではない。二人は一緒に、別の何かへ向かって進んでいる。年下の妹が、うつむく兄を引いているように見える。彼女は信じている。彼女は希望であり、再生する日本である。

© Philippe Daman

戦後、土門拳は自らの国を休むことなく見つめ続ける証人となった。爆撃によって壊滅した大都市、東京、大阪に彼はいる。広島の病院にもいる。現実を見つめ、それを眼差し、身振り、怒り、笑い、微笑みを通して捉える。そのリアリズムは強烈であり、計り知れない歴史的価値を持っている。戦争の狂気が何を引き起こすのかを思い起こさせるために、そこにある。今日の私たちは、それをあまりにも必要としている。

ぼろをまとった少女が花の香りを吸い込んでいる。その後ろでは、怒った女性が写真家を見つめている。子どもたちが食べ物を受け取っている。傷ついた女性が物乞いをし、病気の子どもの上に崩れ落ちている。汚れた悲しそうな子どもが地面に座っている。幼い少女がいたずらっぽい目で見ている。ほかにも何千枚もの写真が、子どもたちを通して戦後の日本を語っている。土門拳が彼らを見つめた時代、彼らは日本の未来だった。写真家は苦しみと希望を捉えた。そして今もなお、私たちの心を動かす。

土門拳が撮影した顔、身体、動きが、日本を語っている。酒田の大仏を思う。一方の手で子どもたちを守り、もう一方の手で迎え入れる。しかし残念ながら、それは象徴にすぎない。写真家は守る者ではない。現実を示すだけだ。それを見るのは、私たちの役目である。土門拳の写真のリアリズムは強烈だ。それは私を揺さぶり、私自身の視線を変え、感情そのものまで変える。写真家の仕事には、確かな調和がある。そこには、何も飾らずに見せるという一貫性がある。三島、川端、谷崎をはじめ、同時代の偉大な人物たちを撮影した数多くの肖像もまた、そのことを物語っている。

私は旅をする学生だ。今日、私は学んだ。写真の調和、一つの作品を貫く一貫性、複雑な一人の人間が自らの国に向けた唯一の眼差し。酒田の暗い通りが私を包んでいる。人影はなく、ときおり猫の影を受け入れる。誰かが家から出てきて、私は驚く。そして笑う。道は少し上り、木造の家々に沿って続いている。地面には何枚かの板が見える。長い時間にすり減らされたようだ。向こう、通りの先にかすかな光がある。弱く、遠く見える。温かい風が私の手の中で震え、希望に満ちた子どもの手のように、私を連れていく。

またね

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